上巻へ
第24回 青山俳句工場向上句会選句結果 下巻

3点句

招魂祭じゃりさりしゃりと迷い猫   秀人

明虫 けいじ (h)かずひろ 

(h)かずひろ:「じゃりさりしゃり」が印象的に思いました。迷い猫が見つめているのは何処?何かいるの?
満月:こんなよりかかっただけのオノマトペの使い方では非難の的になるだけ。
明虫:向上俳句会の新味が好きなのでこの句を選んだけれど語感はよいとは言えないのでは。

ほの昏きよろづ屋にゐて春惜む   朝比古

隆 半信 健介 

半信:好きな世界なのでいただいたが、ツキすぎが欠点。久保田万太郎「パンにバタたっぷりつけて春惜む」の意外性は素敵だなぁ。
満月:<よろづ屋>がいい(「時代屋の女房」みたいだ)けど、<ほの昏き><よろづ屋><春惜む>が同質すぎる。<ゐて>の表記も助長している。
健介:言わんとすることは同じであるにせよ形容の仕方(言い回し)には注意が必要だと思う。「ほの昏きよろづ屋」という方向での限定は背後にそうでない(つまり“明るい”)よろづ屋というのを同時に読み手に意識させうることを踏まえるべきではないかと私は思う。つまりは「よろづ屋」→“ほの昏い”という方向に読み手のイメージを先導し、且つ説得力を持たせて固定させるためには“語順”というものを軽視できない。《よろづ屋のほの昏きにて春惜む》

朧夜や猫を抱く膝UFOめく   秋

特選:鉄火 夜来香 

鉄火:たしかに猫を膝に抱くと膝頭がくすぐったくなるような感覚がある(というより、この句によって気付かされたといった感じだが)。微細な肉体感覚を追求して異世界が立ちあがったところがおもしろい。
夜来香:UFOめくが発見。光景は平凡であるが。
またたぶ:「猫を抱く膝UFOめく」には意表突かれたが、「朧夜」がちと安易な気がしました。
あずさ:モチーフは悪くないと思う。表現がよくない。

裏口に猫が来てゐて日和下駄   足立隆

秀人 古時計 (h)かずひろ 

(h)かずひろ:たまにCMで流れる細野晴臣氏の声に、癒されている今日このごろ。日傘ぐるぐる、僕は退屈。
秀人:猫は裏口から入るのが好きな動物らしい。裏口から上目遣いに見るときのするどい視線が印象的である。下駄を履いている人がいまどきいるのかどうかに関して、コメントはしないでおこう。
古時計:こんな時代もあったよね

歌舞伎町白刃だけが涙色   いちたろう

特選:凌 秋 

ももこ:日曜日の昼ドラ。
凌:歌舞伎町にどうして白刃なのか、はどうでもいい。意味をどう解釈するかは句そのものが拒絶している。意識の瞬間的なきらめきだけがあればいい。
秋:歌舞伎町という場所設定なので白刃が涙色だと言うのが頷ける。説得のある異常。
つっこみ!
帽子:この句にたいする評「ももこ:日曜日の昼ドラ。」がよくわからない。「昼ドラ」は通常の民放の帯ドラマのこと。日曜にやってるわけがない。
それはそれとしてこの句は、東京に暗躍するチャイニーズマフィアを描いた馳星周の『不夜城』の世界に花村萬月ふうのハードな叙情を接ぎ木したようで、惹かれる。採っておけばよかったと後悔してます。拙句「新宿は濡れてるほうが東口」はこの句の露払いだったか。
あずさ:歌舞伎町と言えば、倉田精二という写真家が「ジャパン」とうい写真集をだしている。この句は、あの写真集の濃さに負けている。(もっとも、あの写真集に勝るほどの句なんて書けるんだろうか。。。)ベビーベッドのまわりに張り巡らせた日章旗のインパクトの強さ。政治家って、こんな濃い顔してたのね。etc.
ニッポンが凝縮されたような、ニッポンの血の煮こごりのような写真集を見てしまったわたしには、この句はさらっとしすぎている。右翼って、もっと濃いんじゃないだろうか。(※歌舞伎町と白刃だと、右翼と思ってしまうのだけど。。。)
帽子:例によって相変わらず実景(実体験)主義的評価ですね。それでは、見たことがない土地の名を含む句は評価不能では?
「××を見てしまったわたしには」
「××線沿線に住んでいるわたしには」
そんなフレームをずらしてみるのが、文学だったりするのかもしれないのに。
あずさ:そんなフレームをずらす力を持つのが文学でしょ。チノボーさんのここらへんの展開は、鑑賞するときに「知っていること」「知ってしまっていること」を割り引けと言われているような気がします。なんで割り引いてあげなければならないのかが理解不能です。割り引いてあげないことを実景主義と言われても途方に暮れます。(割り引く理由は全くないと思うし。)もし、目が曇っているという指摘なのであれば、その曇りようをご教授いただきたい。核心からはずれた部分でクレームを付けられても、納得できません。
帽子:えーと、知識はあるにこしたことはないと思いますし、知っていることを知らなかったことにはできないわけです。ただ、住んでいるほうがその土地を示す語を正確に使えるとか含蓄を押さえてるとか、それはどうかと思いますよ。住んでると使えない地名の使い方というのがあって、それをいちいち住民に断るわけにもいきませんし。
あっそうか。その土地に住んでると言うことはつまり読みのハンデになるのだと思います。だから読みを批判してもしょうがなかったのかもしれませんね。住んでるんだから自由に読めないってことはあります。目が曇ってるというつもりはなくて、それはもう読み手の肉体についた条件だと言うことですね。ですから、「読み」よりもやっぱり「ものいい」のほうがひっかかったのでしょうが、いま書きながら発見したこと(土地を知っていることが拘束になる)を考えると、これは言っても詮無いことでしたね。
というわけで先の続きですが、読者サイドにフレームをずらす用意のないところに、作品が「力」でどうことしても、フレームのずれようがないわけです。わたしはフレームを自分からずらす用意はないので作品は力ずくでずらせ、というのは、「自分にわかる作品を書け」と言っているに等しいと思う。
とにかく、採った人よろしく。採らなかった人も。
あずさ:あと、実景主義がいけない、というのは、確かにそうなのでしょうが、それをいけないと言うためには、作品あるいは、批評にそれだけの力が必要なのではないでしょうか?なるほど、と思えるような言葉にふれれば、わたしの実景はふっとぶでしょう。また、写真集の写真は、いわゆる「実景」とは違うとも思います。写真家によって、切り取られたという「意志」がある以上、単なる実景ではあり得ません。俳句が言葉による切り取りだとするのであれば、写真の切り取りようと俳句の切り取りようを比較することは、不当なこととも思えません。わたしが○×沿線上に住むことにより、あるいは、某写真家の写真を見ることにより、ある種の偏見を持っているというのであれば、その偏見をわたしの前に見せてください。それとも、論証不可能な部分、のお話をされているのでしょうか?
帽子:まず、山口さんはわかってると思いますが、今後このスレッドを読む人が誤解しないように書きますと、ぼくは句を実景として読もとすること自体は悪いと思ってません。実景以外の可能性を無視することに危惧を覚えてます。
ふっとばさなきゃならない実景を抱えているかどうかという、もう読み手の体臭の違いかもしれません。だから読みのことではなくて、「ものいい」のことを言っているつもりです。
たとえばある種の伝統結社だと、「この語」(だいたい季語なんだけど)はこう使っちゃダメ、もっと勉強しなさい、て先生がいうわけです。あなたのものいいがそれを思い起こさせるのですね。「わたしには」と断ることで「個人的意見」として表面上は相対化しているように見えて、実際は「住んでない人は(写真見てない人は)知らないから教えてあげるけど」と上から教えを垂れてくださってるわけです。以前はそんなことなかったんだけどなー、と思う。最近「奥行きがない」とか「パワーが」(だっけ)とか、先生が言いそうな語彙を使ってらっしゃるからちょっと心配です。
どうも山口さんは作品を読者を力ずくで納得させるものととらえてらっしゃるようですが、そもそも作品が成立するのは作者と読者の共同作業なわけです。それ以外については今回おっしゃることはまあ判るつもりです。うんわかるつもりです。先日ぴえたさんとべつのスレッドで「実景として読まれないような工夫が必要」と言った千野としては、この句の露骨な昭和歌謡スタイルが「読みのモード」をどう選べばいいかしっかり教えてくれてる気がしたんですね(ま、気がしただけですが)。
だから、そんな力ずくで「ふっとばす」んじゃなくて、「読みのモードの信号」が出てるからそれに協力しただけです。力でふっとばさなきゃ折れないみたいな「剛」のスタンスをとってらっしゃる山口さんには、こんな信号くらいじゃダメってことでしょう。それはわかるつもりです。人それぞれですからね。
読みのモードって、「ひとりにひとつ」じゃないと思うんですが。
えーと、採った人どうですか?
秋:千野さんのつっこみ参加で、がぜんこのコーナーが面白くなりましたね。いつも面白く大変参考になります。千野さんに「取った人どうですか?」って言われて出ていかない訳にいか無いなって思って出てきました。凌さんが特選で取っておられるので、凌さんにこの句の魅力を強力に押して頂きたいと思います。私はこの句から「高瀬舟」がふと出てきました。私、若い頃四谷4町目に5、6年住んでいましたので、歌舞伎町へもよく出かけましたが、表通りをふらふらしていたからか、そんなに怖い思いをしたことありません。そのせいか右翼もマフィアも頭には有りませんでした。今,読み直すとやくざ者の世界なのかな〜って思うけれど、選をするときはそう思って取ったわけではありません。白刃が涙色なのか、涙が白刃のようなのか、上五の入りが歌舞伎町なので、いかにもと頷けるものが有って、句全体がすっきりした良い句だと思いましたね。なんで高瀬舟が出てきたか、そこを考えてみると、この句全体に流れているものが透明感のある清明なものを私に感じられたからでしょう。俳句は省略の文学ですから、17文字以外のものをどう感じるかですので、作者と鑑賞者で作り上げて行くという千野さんの仰る点はよく分かります。その通りだと思います。句の解釈は鑑賞者の方がもしかしたらウエイトが大きいかもしれません。それは、あずささんのように解釈されても、それはそれで俳句は仕方の無いものだということです。あずささんはあずささんでなければ鑑賞できないものを鑑賞されるわけです。解釈、鑑賞は人それぞれ、自由にと行きましょう。
あずさ:秋さん、ありがとうございます。「ものいい」という言い方に、どうリアクションすればいいのか、思案に暮れておりました。わたしは俳句に限らず、ありとあらゆる作品について、ぱっとワカるもの、説明されてワカるもの、全く分からないがあると思っています。優れた批評家に出会って、まったくちんぷんかんぶんだった作品が、俄然輝いて見えることもあるわけで、そういう意味では「ワカらない作品」の力を発見させるのは、批評の力だと思っています。この向上句会の場で、優れた読み手に会えなかった作品も、また別の場で、発見される可能性は大いにあるわけです。この句に対したときの、わたしという読み手の中には、ある種の体験があり、この体験を崩すためには、句そのもの、あるいは、句の批評にそれだけの力を欲するというのは、確かにわたし個人の勝手な都合かもしれませんが、それを言うなと言われると何も言えなくなるわけで。。。
またたぶ:「実景」論に関しては興味深く見守っていますが、私としては「涙色」に関する支持者の弁をお聞かせ願えればありがたいです。毎度、リクツにできない句の魅力を説明せーとお願いするのは気兼ねですし、下のようにつぎはぎ引用にしたのはさらに恐縮ですが、
======引用======
チノボーさんwrote;
この句は、東京に暗躍するチャイニーズマフィアを描いた馳星周の『不夜城』の世界に花村萬月ふうのハードな叙情を接ぎ木したようで、惹かれる。千野としては、この句の露骨な昭和歌謡スタイルが「読みのモード」をどう選>べばいいかしっかり教えてくれてる気がしたんですね(ま、気がしただけです>が)。
だから、そんな力ずくで「ふっとばす」んじゃなくて、「読みのモードの信号」が>出てるからそれに協力しただけです。
秋:歌舞伎町という場所設定なので白刃が涙色だと言うのが頷ける。(選句評より)
=====ここまで=====
この句から「東京に暗躍するチャイニーズマフィアを描いた馳星周の『不夜城』の世界に花村萬月ふうのハードな叙情を接ぎ木したよう」というモードに読もうという「信号」が出ているということなのでしょうか。便宜上そういうことにして先へ進みますが、
1.「涙色」なんておセンチな素材を生かすのは並なことではないと思うのですが、この句の「涙色」は効いてますか?
2.もしかして「ハードなものに『涙色』を組ませたあたりが中和というか、弁証法的に一次元上がっている」ということなのでしょうか。
この句会では私が呼ぶところの「極道もの」が好まれているように感じるし、それが「花鳥風月やらの伝統に対する安易なアンチテーゼ」を超えていると思えるものが少なかったように(個人的には)感じると前にも書きました。そういう感度な私からみると、この句もその類と一絡げに見えてしまいます。
「好みのモンダイ」という究極の議論停止法もありますが、となたかこの句の良さを私にもわかるように評してくだされば、本当にありがたいです。
帽子:安易な、作者が先に笑ってるみたいな極道句が多いのは確かです。とくに「指」の回はお題がお題だけに。ぼくのなかでは、チャイニーズマフィアと極道って方向がいまのところ違うというか、チャイニーズマフィアを想起させられた句がはじめてだったから、感心しました。もちろん作者がそのつもりで作った可能性は低いし、多くの人には相変わらず和風任侠の世界に見えてもしょうがない句だと思います。あと、どこまで本気かわかんないとこも魅力でした。安易な「これキッチュなんですよ光線」を出してなかったもので。
(またたぶ:この句の「涙色」は効いてますか?)
採らなかったのは、そこで引いてしまったからです。あとでじっくり考えて、採っててもよかったなと思います。ぼくは勝負に出てるなと思いました。若干の冒険心を感じました。でも「涙色」が投げやりじゃないかと言われたらうまく返せる自信ないですが。
(またたぶ:もしかして「ハードなものに『涙色』を組ませたあたりが中和というか、弁証法的に一次元上がっている」ということなのでしょうか。)
とんでもないです。そうじゃなくて、むしろこの組合せは「梅に鶯」的な絵に描いたような取合せでしょう。ただそれがコンセプチュアルに思えたのです。ではこの句を「つきすぎ」句と区別したくなる要因はなにかと問われると、うまく言えないです。でも自分のなかではなんか違うんですね。説明になんなくてごめんなさい。
去年ぐらいからですが、「俳句は飛躍がなければ」的二物衝撃イデオロギーにかなり飽きてきてるのです。「切れないこと」が眼目の句がつき過ぎだと言われててたり、ぺらぺらであることが命の句に重みや説得力を要求する生真面目さを、読み手としてキープできなくなったのです。そんな好みの問題だろ、と言われるのは覚悟の上です。
またたぶ:「涙色」へのチノボーさんの賭け?がわかるとまでは言いませんが、おぼろに察することはできてきました。
(帽子:去年ぐらいからですが、「俳句は飛躍がなければ」的二物衝撃イデオロギーにかなり飽きてきてるのです。「切れないこと」が眼目の句がつき過ぎだと言われててたり、ぺらぺらであることが命の句に重みや説得力を要求する生真面目さを、読み手としてキープできなくなったのです。)
これは正直こたえました。俳句をやってるうちに自分なりの公式みたいなものが出来てきてしまって、その枠組みでしか詠めない、だけならまだしも、読めないというしゃれにもならない部分に侵食されている…のが私だけならまだ害も少ないでしょうが。(少なくないか)かといって、ここ何年かに養ったものを急にぱかっとは捨てられない。「負」の裏の「正」もあったはずだから。どう脱皮しようか思案中の私にはすごく頷けるお言葉です。そこで、話が前後するのですが、
(帽子:むしろこの組合せは「梅に鶯」的な絵に描いたような取合せでしょう。ただそれがコンセプチュアルに思えたのです。)
チノボーさんは「コンセプチュアル」をどう定義されていますか?文学批評でも市民権を得た言葉なのだろうと思いますが、検索しても使用語彙に加えるほど理解できなかったことと、チノボーさんにおける定義を確認させていただかないとせっかくの上のお答えもすんなり入らないものですから。何度も野暮をお願いして恐縮です。蛇足ながら「恣意的にではなく、戦略的に」というあたりを私のイメージはさ迷っているのですが、ずれてる気がする。
秋:たぶん、殆どの方がこの句を極道の句として読まれ、そしてそれを嫌らって取られなかったのだと思います。私は極道の句と読まなかったから、頂いたわけです。極道の句と思ったら頂かなかったと思います。極道の句と取ると詠まれている世界が狭いし、新しい想がないですね。そして詠まれている想が嫌らしい。私が極道俳句でなく、高瀬舟がよぎったものは何だったか、多分それはこの句が5、7、5の正しい韻律で詠まれていたからだと思います。そこがこの句を立たせているのだと思います。純粋に物として白刃と涙の煌きに感動したのです。上五の歌舞伎町は新宿歌舞伎町であるのですが、あの歌舞伎の世界がダブっているようにも私には思えます。千野さんが極道俳句として、この句をなお取りたいと言われているのを興味深く読ませて頂きました。
ぴえたくん:秋さん、こんにちは、はじめまして、よろしく(^.^)
あ、ちのさん、わたしは「涙色」がちのさん言うところのおポエムに思えて選ばなかったのですが。
(秋: 純粋に物として白刃と涙の煌きに感動したのです。上五の歌舞伎町は新宿歌舞伎町であるのですが、あの歌舞伎の世界がダブっているようにも私には思えます。)
わたしは歌舞伎の世界だと思いました。実存する歌舞伎町は話しに聞くだけで行ったことがありませんから、歌舞伎の文字を見ただけで、歌舞伎の世界まっしぐらでした(^.^)
歌舞伎の世界って作りもの作りものしてて、おんなのひとまでおとこのひとがしてる。白刃だって竹光。でも、そのライトを浴びてきらめく竹光の白刃には人間世界の涙の色が映ってる。いいなあ。。。と読んでいました。
帽子:ぼくもそう思って(おポエムと思って)最初引いたのです。あとから、採ってもいいかなと思い返しました。
(帽子:ぺらぺらであることが命の句に重みや説得力を要求する生真面目さを、読み手としてキープできなくなったのです。
秋:同感です。
ぴえたくん:賛成賛成\^o^/)
えーと…だからといって緩い句は嫌いです。
ただ、「××がないからダメ」という発想をしそうになったら、ちょっと自分で気をつけようと思っています。
「××がない」という発想だと、ときどき自分のなかで活動しているあるものが止まる気がしたのです。
ぴえたくん:わたしはちのさんの「緩い」がわからなかったのですが、自作短歌を「緩い」と評されて理解できました。うん。「緩い」は確かにいけませぬ。自戒。
帽子:いっておきますが、ぼくも「極道」とは取りませんでした。「極道」と取ったら「つっこみ句会」で誉めてません。繰り返しますが極道とチャイニーズマフィアはぼくにとってぜんぜんべつのものです。
秋:いつも千野さんの発言は瞠目して拝見しています。この句の鑑賞については千野さんの鑑賞が今一つ掴めないのは、私が「不夜城」も「花村満月の小説」も読んでいないので、十分に理解出来ないのだと思います。ただ、千野さんも、極道と取っていないという確認が出来て、大変うれしいです。
凌:数少ない推薦者のひとり、しかも特選にしているわけですから何か言わなければならないのでしょうが、特選の理由はあそこに書いた通り「意識の瞬間的なきらめき」で、秋さんのお書きになったこととまったく同じ捉え方を私もしていたんだと思います。極道とか右翼はまったくイメージの中にさえありませんでした。なぜこの句が極道俳句なのか、右翼なのかも私にはわかりません。
歌舞伎町+白刃=極道という図式だとすれば、それはあまりにも現実的すぎると思いますし、この句はそんな現実描写ではないと思っています。たた「涙色」についてはちょっと甘いかなと思いましたが、案外この言葉が白刃とつながって極めて日本人的なアウトローの美学を醸し出しているのかも知れません。
あずさ:歌舞伎町から、実体をはぎ取って、「歌舞伎」あるいは「歌舞く町」とでも捕らえれば、みなさんの読みが成立するということですね。 実景主義という言葉で、「イデオロギー」としれのレッテルを貼られること自体不愉快ですが、「歌舞伎町」をどう逆立ちすると「歌舞く町」と捕らえることができるのでしょう?
人が生きて実際にそこに住んでいるということに対する軽視を感じます。(ケンカ売ってるようですが。)
岡山と言えば吉備団子、吉備団子と言えば桃太郎さんですね。と言っているのとどこが違うのでしょう?
現実的でなくて、童話的でけっこうだというお話でしょうか?
血の通わないものこそがいいというほうが、よほど「イデオロギー」としてのヤバさを含んでいるのではないですか?
上からモノを言って申し訳ないのですが、あの町は若者の町になることの決してないおどろおどろしい場所です。
2000年6月現在そういう場所として、実在しているのです。
夢物語にケチをつけるな、と言われれば確かにそれまでですが、「句の鑑賞」というイデオロギーを振りかざして、現実を無視せよというお話には納得いたしかねます。
凌:ちょっと待って下さい。私は私の読みを申し上げただけで、みなさんの代弁をしたつもりはありませんし、この句に対して共同の読みが成立しているとは思えません。
この句の場合は実景(現実)ではないものが見えたと思っただけで、実景主義を否定するつもりはありませんし、「歌舞伎町」を逆立ちさせるというたいそうなことを考えているわけではありません。
にはないもの、言葉の上にあらわれた世界に血を通わせるのも文芸の一つだと心得ております。
現実を否定するつもりはありませんが、現実にないものは夢、あるいは童話という短絡的な図式で私は句を書いていませんし、読んでもいません。
あずさ;現実だけを見るべきだと言いたいのではありません。 歌舞伎町という実体についても視野にいれるということ自体を否定するのはへんだろうと言いたいのです。
これは、凌さんにというより、チノボーさんに言っているのですが。)
知らない町は読めないだろうというご指摘もありましたが、知らない町は知らないなりに読んだ上で、可能であればその町を知っている人の話を聞きます。
この時点で、読みが変わる場合もあれば、変わらない場合ももちろんあるでしょう。
少なくとも、「実景主義」というキーワードで、その町を知っているということ自体、あるいはその町を知っていることから来る印象までを否定することはしません。
今回の「実景主義」という言葉の使い方からは、白を黒と言いくるめられるような印象を受けました。
率直に言って、「日本は負けると言ってはいけない」と言われているみたいな感じを受けましたので、あえて無粋な書き込みをしました。
(句自体の読みからはすでに離れていると思いますが。。。)
帽子:まあ、ぼくがこういうことを書くのももう最後ですから、勘弁してください。岡山といえばきびだんご、で、桃太郎。それでもいいじゃないですか。それでも気に入ることがあるんですよ。てゆうか、観光地ってのは観光俳句という陵辱の対象になってきた歴史があるんです。「東口」のスレッドで言及した米国の女性歴史家の名前が相変わらず思い出せませんが、彼女はこういうことを言っている。(大意)
<観光地の娼婦性が、とつぜん方向を変えて、都市のビジネス地区に向けられた途端、ビジネス地区を日常的に利用している住人は 一様に「そのイメージは間違っている」と述べる。彼らは、観光地に自分が向けているエグゾティシズムには気がつかない。他なるものへの幻想を押しつけつつ、自らに押しつけられる幻想は容認できない>
(あずさ:歌舞伎町という実体についても視野にいれるということ自体を否定するのはへんだろうと言いたいのです。)
ほっといても視野に入るでしょう。で、ぼくはべつに否定しろとは言ってません。ほっといても、実体から読みが遊離していくもんじゃないかなあと思うんですが。「わたしの体験」って、俳句の場でまでそんなにしがみつかなきゃいけないものかどうか、不思議に思ったからです。でももう体質の問題だと思うので、言ってもしょうがないですね、これは。
この話題はじつは98年秋のNiftyの意味論争から続いてると思うし、もう言っても詮無いことだと思うようになりました。たぶんぼくはあなたの言っていることを理解できないのだと思います。そしてvice versa.なので、もうこれで終りにします。ご迷惑かけたみたいなので。失礼しました。
それから極道とも右翼とも言ってません。ぼくのなかではまったく方向が違うと書いてます。<凌さん
あずさ:打ち切り宣言をされているところに恐縮ですが、質問させてください。
(帽子:「東口」のスレッドで言及した米国の女性歴史家の名前が相変わらず思い出せませんが、彼女はこういうことを言っている。(大意) <観光地の娼婦性が、とつぜん方向を変えて、都市のビジネス地区に向けられた途端、ビジネス地区を日常的に利用している住人は一様に「そのイメージは間違っている」と述べる。彼らは、観光地に自分が向けているエグゾティシズムには気がつかない。他なるものへの幻想を押しつけつつ、自らに押しつけられる幻想は容認できない>)
示唆に富んだ指摘だと思いますが、これは、お互いに黙って陵辱されましょうというお話しなのですか?
わたしはイメージにしがみつきたくて発言しているのではなく、「無知」にしがみつきたいという態度が気持ちが悪いのです。たとえ俳句の場であっても。
洞窟の中にいたいの。ここちがいいの。と言われているような気がする。しかも、知的な言説を装って。
おっしゃるとおり、互いに接点がないのかもしれませんが。
いずれにせよ、じぶんの体験から自由でいられる人間など、存在しないと思います。(老婆心ながら、ご忠告させていただきます。)
帽子:そう取られたなら、そう取ってください。体験から自由でいられる人間がいる、とぼくが主張しているように取られたなら、そう取ってくださっても結構です。ご忠告ありがとうございました。
あずさ:以下は四方山話です。知り合いに、黒人ミュージシャンを描く画家がいます。(その世界では著名な方ですが、あえて名前は伏せます。)この人がある時、銀座で個展を開いた。当時、友人に黒人ミュージシャンがいたので、彼を誘って、個展に行きました。わたしは単純な発想で、喜んで貰えると思った。しかし、彼は嫌な顔をして、一言「ステレオタイプ」と言いました。わたしはがっかりして、せっかく誘ってあげたのに、いくらなんでも、この言い方はないだろう、と思い、また同時に画家が気の毒になった。
憧れは、芸術にはならない。
同じ憧れを共有する者同士には、ウケるでしょうが、その囲いの外に出ることは不可能です。
もっとも、この件に関して、わたしは黒人ミュージシャンの言わんとすることをきちんと理解できたわけではありません。ただ、この彼の下した評価は、致命的、だった。
===四方山話終わり。

煩悩の箱をつくってれんげ田に   けん太

朝比古 青 またたぶ 

またたぶ:この相対化の仕方、うまいと思います。

獣ありウノハナクタシとこぼしつつ   鉄火

満月 帽子 薫 

薫:猫ばばや(これも好き)もそうだがなんだこりゃな世界。たしかに卯の花腐し、ってカタカナで書きたくなるような呪文のような。はじめて耳で聞いて文字想像できない。ところで句意は獣が もー、雨ばっかりでよー、と愚痴ってる、で良いのでしょうか。
帽子:「卯の花腐し近辺に卯の花は無し   池田澄子」を想起。
満月:<ウノハナクタシ>のカナ表記が、呪文のような効果を出していて不思議だ。<獣>とはなんだろう。卯の花をこぼすのではなく、<ウノハナクタシ>ウノハナクタシと愚痴をこぼしているのか、あるいは<獣>の<ウノハナクタシ>性があふれてこぼれているのか。気の弱い優しい獣がぴったり。

皮一枚剥がして眠る朧月   さにー

特選:古時計 けん太 

けん太:やや理が勝った現代詩。不思議さに惹かれてしまった。
古時計:「皮一枚剥がして」というマイナス、「朧月」がプラスという組み合わせがこの句をひきたたせている。

猫三匹で童貞シールプレゼント   山口あずさ

帽子 鉄火 薫 逆選:隆 

薫:ンなもんもらってもうれしくないと思う。いっそ、「猫缶3個で童貞プレゼント」として欲しかった。「猫のかんづめプレゼント」って、私も考えてたので共感の一票。(皆さんの不興をかいそうでだせなかったが)
鉄火:不条理な設定を通じて、雄の子猫たちが威嚇している様子が浮かんでしまった。
帽子:どんなシールだ。ところで先日久しぶりに女の人にセクハラされ、しかも「女から男へのセクハラはOK」だと。あーらー、大平楽だこと。もちろん、ブチ切れてやったさ。笑わせる。

満月の銀河鉄道猫じかけ   姫余

凌 子壱 古時計 逆選:亜美 

亜美:「猫じかけ」は日本語としてちょっと無理があるのではないか。「異化」でもなんでもなく、ただ「浮き上がった」表現に思われる。構造的には「猫だまし」も一緒だけど。
子壱:句としてはぜんぜん感動しませんが、車掌で満月さんが切符切っていそうな雰囲気なので、一点入れました。
凌:満月の夜のユーモラスで怖いお話。
満月:すべてが定番の童話をそのままなぞっただけ。
古時計:こんな光景を見てみたい
あずさ:『銀河鉄道の夜』の映画化はまず成功しないと言われていたが、主人公を猫にしたことによって大成功。というような話を思い出してしまいました。。。

シュレーディンガーの猫が大きくなりました(当社比)   千野帽子

特選:満月 子壱 逆選:薫 逆選:一之 

薫:目のつけどころすごい。特選にしようか逆選にしようか迷う句(ンなもん迷うなって)蓋開けてデカくなってたら物理学者もびっくり。猫カンのCM仕立にしたところが手柄。当社比がなかったら特選なのになー。
子壱:シュレーディンガーの猫を扱っている会社があるとは思いませんでした。しかしこの猫って大小あるのでしたっけ?俳句といえるかどうかは判りませんし、短詩としては時々ある手法のような気もしましたが、ごろが良いので。
満月:<(当社比)>が最高!なのにこの言葉でのリズムのくずれったら。。コピー調の表現がとてもいいのに。お題「猫」の一風違った使い方には快哉。・・・うーーん、<(当社比)>の部分を声に出して読まない、ということで特選にしてしまおう。
またたぶ:前回の「いそぎんちゃく」がエスカレートしたんでしょうか。「柳の下のなんとか」でないかどうかが問われると思います。
健介:「(当社比)」というとぼけた仕掛けの面白味に感心。
つっこみ!
あずさ:「シュレーディンガーの猫」って、何か下敷きがあるんですよね。ちらっと調べたのですが、わからなかった。誰か教えて。
猫:http://www.threeweb.ad.jp/~qm/cat.html
あずさ:猫さん、どうもありがとうございます。パラドックスの説明で、もっと単純化されたものを聞いたことがあります。箱の中に猫がいる確立が50%だとしたときに、50%だけ猫がいるということはあり得ない。猫はいるか、いないかである。ところで、ご紹介してくださった文章を読むと、猫は生きているか死んでいるか。ということになりますね。句にもどって、猫が大きくなるとういことは、生きているということになる。。。。この句、どう読めばいいのか、わたしにはうまくつかめませんでした。アイデア一発勝負、というふうに、解釈すればいいのかな。
<シュレーディンガーの猫が大きくなりました>が持っている世界と<(当社比)>が醸し出す世界が、力を削ぎ合っているような気がします。これはぜひ別々に活用して欲しい。
2点句

待つという約束くるみ猫柳   室田洋子

秀人 健介 

秀人:猫柳の暖かそうな様子と「待つ」という甘たるいロマンシズムとが、約束事のようにぴったりはまっている定型詩。猫柳みぐるみ脱いで風邪を引く
健介:“甘い”という印象は少々鼻に付くんですけど「猫柳」らしさは上手く醸し出せていると思う。

花菜明かりに縄文式マリリン   杉山薫

満月 ぴえたくん 

ぴえたくん:ノリが好き。
満月:<縄文式マリリン>とはなんぞや??なんだか明るくてちょっとたくましそう。わけわからない<縄文式マリリン>に一票。
つっこみ!
ぴえたくん:つっこみではありませんが、前回の「佐保姫の夜は紫色の馬」もそうだったけど、この全然わからなさが好き。
わたしはこの「縄文式マリリン」を町内?で一番もてもての美猫だと思ったの。人間の美女は美しく装ってもいるけれど、美猫は素裸=毛皮と姿態が勝負。でもってそれを縄文式の一言で上手く言ったわね〜と言う感じ。
花菜明りに美猫女王様マリリンが本田美奈子のマッリッリ〜〜〜ンっをBJMに練り歩いているなんて、うれしいよ。
わからないの好き。
あ、これもお題「猫」の題詠だよね。
作者:ぴえたさん、満月さん、ありがとうございました。実はこの句は・・・という自解ができれば良いのですが、残念ながらなーんにもありません。菜の花を土器に容れたら合うんじゃないかとは常々思ってましたが。
お二人の評のほうが秀逸でこれなら自分でも採りたくなってしまいました。
(ぴえたくん: 花菜明りに美猫女王様マリリンが本田美奈子のマッリッリ> 〜〜〜ンっをBJMに練り歩いているなんて、うれしいよ。)
こっ、これは。そうか本田美奈子。マリリンだなぁ。(回想)
えー、猫文字を入れたのは他にもう一句出してますのでその意識(=題詠という意識)はなかったのですが、でも、猫っぽいかも。確かに。本田美奈子。
ぴえたくん;でしょうでしょう(^.^) 

百の舌飛び出してきし落花かな   明虫

萩山 朝比古 

萩山:花弁の形によっては思い当たる記憶あり
あずさ:百舌?

思いとどまれば修正液の桜花   室田洋子

特選:秋 

ももこ:うーん、春ですねぇ。もうこんなに思い悩むことも無くなった。
またたぶ:中村さんの桜句(第14回参照)へのオマージュか?「思いとどまる」と「修正」の間にどうも類縁が見えてしまう。
満月:桜が修正液?というようなのは以前Nifty?で見たような。<思いとどまれば>が作者の個人的な感傷や粘液を感じていや。
秋:句の描くものがきれい。〜ならば〜というのはあまり好きではないのですが全然気にならなかった。桜花の意外性とその世界が広がるからでしょう。

春満月蹴って猫型放物線   杉山薫

一之 いしず 

あずさ:日が沈んだ直後、まだ少し明るさの残る青い透明な空を満月が流れて行く。月の流れ星があったらどんなに凄いだろう。プラネタリウムのお月さまは、すーっと簡単に流れるけれども。

手のひらに蝶湧きいずる昼の夢   いしず

けん太 (h)かずひろ 

(h)かずひろ:胡蝶の夢?それにしては生々しい・・・。
けん太:現代詩の味がする句だけれど、よくある世界・・・。それでも説得力を感じる。
またたぶ:夢オチですか。
満月:めろめろの情緒もの。

前世は猫にありんす花篝   ぴえたくん

秀人 一之 

秀人:「ありんす」と「花かがり」との親和性。素直でよい句である。猫を詠みこむために無理をしているようにも見えるが、無理をするのも創作のうちであろうから、許容範囲ということでオーケー。

チューリップと一年生はガラス質   秋

薫 いちたろう 

いちたろう:すぐ折れるけど、誰も折らない。誰にでも書けそうな句でもあるけど、そうでもない。簡単に批判される句かもしれないけど、それは野暮なことかもしれない。ただ、Kinki Kidsの「硝子の少年」が下敷きにあったら、恥ずかしい。
薫:最近密かに注目株のチューリップ(球根だし)。一年生、微妙な甘さだ。ガラス質、のとらえかたうまいと思います。
またたぶ:「チューリップ」と「一年生」は近すぎる。
満月:たしかに。言われてみるまで気づかなかった。この場合、水飴のような水ガラスを含んでいるか。
あずさ:<硝子質>だったら採ったかも。

遍路路のぼりつめればそらとうみ   秀人

一之 けいじ 

けいじ:俗な私にはなかなかわからない世界なので。極めてみれば何も無いということでしょう。

恩人の掌白し紫木蓮  足立隆

半信 健介 

半信:実感があると思った。しかし、「恩人」という表現ではもう一つ映像が広がらないし、言葉としての魅力に欠ける。
健介:「掌白し」と「紫木蓮」の二色を配した意図が見え透いている点に所謂“うるさい”印象を読者が受けるというケースではないかと思うのですが、いちおう私は一票。

猫ばばや海馬かろしとゆく青野   満月

青 いしず 

あずさ:この<海馬>って、セイウチ、トド、タツノオトシゴ、ジュゴン、脳の内部にある古い大脳皮質の部分、のうちどれだろう。読みは「かいば」だと思うけれども。

にんにくすりおろす国歌斉唱かな   宮崎斗士

特選:半信 逆選:健介 

ももこ:三国人発言、神の国リップサービスと後を絶ちませんねえ。国歌斉唱と根を一つにするところがこの国の悲劇。にんにくが厄払いになるか。
半信:にんにくのザラつきが「国歌斉唱」と良く響き合っていると思った。ただし、寓意が感じられるのは仕方がないにしても、韻律には再考の余地がある。
またたぶ:選んだ5句からどうしても特選を選べなかったので(すみません)、この句を準並選にします。時事句にはうるさいんです。
満月:もしかして皮肉のつもり?ぜーんぜん効かない。
健介:それにしてもこんなにも効果のまったく感じられない「かな」止めの遣い方があるものだろうか?というのが率直な印象です。

夕桜クラリネットに黒い猫   けん太

洋子 亜美 逆選:凌 逆選:秋 

亜美:やや凡庸の感があるが、影絵のようなふたつの黒のシルエットと夕桜の対比からなる浮遊感が春の宵の感じを巧く表出している。クラリネットの響きとも重なりあうよう。
凌:「夕桜」「クラリネツト」「黒い猫」と素材は揃った。これで確実に3句は出来る。
満月:<夕桜><クラリネット><黒い猫>どれも印象がはっきりしすぎていてばらける。どれか二つで句世界を構築してほしかった。
秋:夕桜と黒い猫で良いのでは?クラリネットで気分が散ってしまう。惜しい。
健介:提示の仕方がちょっと強引すぎて「黒い猫」が浮いてしまっている感じ。

義理義理っ義理義理義理っ義理義理っ   山口あずさ

明虫  けいじ 逆選:半信 逆選:斗士 逆選:鉄火 逆選:子壱 逆選:ぴえたくん 

けいじ:選句作業中、二度採って捨ててを繰り返し、結局採ってしまった。くそぉ。軋むような義理なのかな。よくわかってないんですけれど、離れていかない。
ぴえたくん:言葉遊びと文字遊びは違うと思います。
子壱:この句ではどんな漢字でも当てはまってしまいますので(例えば、馬鹿馬鹿っ**などなんでも)、困ってしまいます。なにか義理で苦労していらっしゃるのでしょうか?
鉄火:遊びがないのがつらい。
斗士:とにかく目立てばいいのだろうか?
半信:こんなことで面白がるなんて…。何を詠みたいの? 富沢赤黄男に「ひとの瞳の中の 蟻蟻蟻蟻蟻」という句があるが、これが芸というものです。
またたぶ:特別賞に推したい。
満月:この手は好きだが今回は採らない。なんだかもひとつ欲しい。
明虫:小さな「っ」のおかげで、誰かが発した言葉として感じられるし、キツそうに聞こえて作者は嫌がっているらしい、と判る。成功していると思う。
健介:逆選にしようという気にもなれない程のものです、ね……

1点句

行春を猫抱く人と絞りとる   しんく

亜美 

亜美:「人と」は?。猫を抱きすくめる触感と行春を搾り取る感じをもっと直裁に重ね合わせてもよかったのでは。デリケートな感覚の句。
満月:<・・・近江のひとと惜しみける>のパロディ?惜しまずしぼりとるのはいいとして「搾り」ではないの?

汽水域に行方不明の猫の舌   満月

亜美 

亜美:「猫の舌」の生暖かな不安定感と、「汽水」の曖昧な混合、かつ流動体がうまく融合している。「行方不明の」の説明は、疑問だが。

薄壁に陰だけ残して猫隠れ   来夏

しんく 

しんく:山田風太郎的世界。
またたぶ:「て」がなければ類想あるとはいえ、それなりの味も出たのに。

猫股や今へ奥寄る朧見遣る   小島けいじ

(h)かずひろ 

(h)かずひろ:「今へ」の助詞の使い方が新鮮に感じました。化け猫が忍び寄る雰囲気。
満月:<今へ奥寄る>ってなんですか?

青葉して出窓の猫は生きかへり   夜来香

鉄火 

鉄火:上五で句全体がムクムクと起きあがった感じ。「出窓」はやや説明的な匂いがしますが。

旅猫のこめかみにある青葉騒   田中亜美

斗士 

ももこ:現代人のロマンですねぇ。
斗士:「こめかみにある青葉騒」の新鮮さ。
満月:うーーーーん、猫のこめかみってどこだろう。・・今わざわざ猫にここまで来てもらって確かめたがわからなかった。。しかも<旅猫の>なんですよね。旅をする猫にはこめかみが発生する?

うらぎりもしくじりも比目魚うらがえす   摩砂青

夜来香 

夜来香:うらぎりをうらがえすと言葉遊びがいい。恨みつらみでなく、さっぱりした句。

恋猫がシャネル5番をまきちらす   後藤一之

けいじ 

けいじ:何となく、そんな風な猫がいてもいい。実際にもいそうだし。

招福猫おちて空洞割れゐたり   明虫

あずさ 

満月:<空洞>が割れている?招き猫は割れていない?つまり空洞のない実質だけになった?空洞があってはじめてなりたつ福だったのだ。
あずさ:招福猫が落ちて割れるのは当たり前だが、空洞までを割ってみせたところが手柄。

花瓶には猫共和国さしておく   摩砂青

凌 

凌:「猫」という課題につまらないと思ってたけど(出題した方ごめんなさい)、この句で題のすごさを思い知った。
またたぶ:「猫共和国」、好きです。
満月:工夫した切り口ですね。花瓶に挿すにはまず切らなくちゃね。
つっこみ!
秋:この句は凌さんが取っておられるのですが、私も大変関心を持ちました。「猫共和国」だけなら何とか私にも描ける物があるのですが、花瓶にさす「猫共和国」と言われるとはたと困って、頂けませんでした。凌さんのこの辺の解釈を伺う事ができると大変うれしいのですが。
凌:詩人、天沢退二郎であったかどうかうろおぼえですが、水盤にびっしりごはん粒を活けるという詩があって読みながら鳥肌のたった記憶があります。またここでも水盤に子猫を活ける(凄惨でうつくしい)という句があったような気がします。しかしこの「水盤に子猫」の場合は、私が凄惨でうつくしいと思った時点で私の前から消えてしまいました。勿論、作者の句意とは大きな隔たりがあるに違いありませんが、(やや異常な)情景の提示に過ぎない思ったからです。しかしこの「花瓶には・・」の句には意味では読めない仕掛けがあって、まずそこに興味を持ちました。ご承知のように言葉には形を伝えるということも含めて意味があり、あるいは意味を伝えるための記号として言葉があるわけですが、その常識や規範に沿った意味をはぎ取った言葉のみが詩として自立するということもあると思っています。それでこの句の場合ですが、「猫共和国」を「猫がいっぱいいて、その猫たち自身が自治している国」と読んだのでは句が成り立ちません。しかし、いっさいの意味や情景を拒絶した詩語として「猫共和国」を捉えれば、もうそれは水盤に活けようが、花瓶に挿そうが自由なわけで違和感はまったくありません。失礼な言い方をすれば、この句の魅力は意味に囚われない自由な言葉の斡旋であり、挿せる筈のないものを花瓶に挿した手柄だと思っています。
多分よく分からないことを書いている思います。お許しください。
秋:私はこの詩(天沢退二郎の詩)を知りませんが「水盤にご飯粒を活ける」と言うフレーズなら私の思考にも抵抗なく入ってきます。でも「猫を水盤に活ける」は抵抗がありました。そこで今回の句ですが、この句には凌さんも言っておられる仕掛けがあるわけです。「花瓶には・・・さしておく」凭れかからない作者の自意識というものを感じます。「猫共和国」につきましては凌さんの仰る点は一応理解出来ます。
でも、私は言葉をそこまで拡大解釈をして詠む事に抵抗があります。俳句の言葉には意味や情景がしっかり入っていないと句が立って行かないと思います。この句場合、凌さんの解釈を読ませて頂きながら、気が付くことがありました。この句はイメージの合成なのではないか。「花瓶」「猫共和国」「さす」一見綺麗で、平和で、それでいて決して同化しないそういう社会の一面を描いて見せてくれたのではないかと思うのです。私はそういう解釈で落ち着きました。改めて良い句で、取りそこないました。
凌:少し補足させて下さい。確かに「言葉には意味や情景がしっかりと入っていないと句が立っていかない」ということは理解できます。しかし、通常の意味ではないところに、新しい、あるいは別の意味を紡ぎ出す言葉の斡旋ということはあるのではないでしょうか。そして「猫共和国」こそが(この句の場合)通常から切れた言葉の新しい意味を背負っているのではないかと思っているわけです。私がこの場の俳句に興味を持つのも、皆さんの言葉へのわがままな関心と意味をへし曲げてでも自分のものにしてしまうしたたかな詩精神のようなものに興味があり面白がっているわけです。
帽子:同じ理由でこの句に惹かれたことを、ここに記しておきます。「には」が気になって採れませんでしたが。
あずさ:わたしはこの句、情景が浮かんできたのです。猫共和国の旗が花瓶にさしてあるというふうに。
昭和天皇崩御の一年前の1月2日、「見ておいた方がいいかな?」(※全国の昭和天皇ファンの方ごめんなさい。)と思い、友人と一般参賀に行きました。皇居の門(何門だったか忘れた)をくぐる前のところで、小さな日の丸を手渡されました。皇居の美しいお庭ぶりに感心しながら、旗を振る老人の姿に不思議な感銘を受けながら、外人連れて来たら喜びそうだなと思いながら、また同時に、ローリング・ストーンズの方が好きだぞと思いながら、わたしも一緒に旗を振りました。日の丸の小旗を持って、家に帰ったわたしは、どこに飾ろうかな?と思って、テレビの上の花瓶に日の丸をさしたのでした。
<花瓶には大日本帝国さしておく  あずさ>
あと、<水盤に子猫を生ける夏休み>は第16回に出したわたしの句です。水盤だとどうしても剣山が思い浮かんでしまうので、残虐絵になってしまったのですね。花を生けるには、針のない七宝というやつもあるのですが、こちらはあまりメジャーではないみたいで。。。作者としては、剣山に突き刺すというよりも、じっとしていない猫を水盤の上になんとか留めておくようなイメージだったのですが、、、ま、どちらにしても猫は迷惑でしょう。

カリスマやたんぽぽの咲くセネガルに   しんく

またたぶ 

またたぶ:流行語となってしまった昨今は「カリスマ」のバブルな語感が邪魔だが、、それをなるべく無視して味わうとほの甘い哀愁のような感がある。

すかんぽを袈裟懸けに切る俳枕   子壱

帽子 

帽子:きもちよい。
つっこみ!
ぴえたくん:「俳枕=俳句に詠まれた名所・旧跡」が漠然としていて、もどかしさを感じましたが、でも、それはこの作品がもどかしいのではなく、自分の理解力がもどかしかっただけで、すっごく好きな作品でした。今回はいっぱい選びたいのがあって、つっこみ句会でつっこみではなく喜びを書かせてもらいました。
わたしにはこの句の魅力を上手く書けないのですが、ちのさん、きもちよさの説明をお願いしてもいいですか?
帽子:そのまんまです。<袈裟懸け>という斜めの動きの鋭さ。柑橘系の酸味と芳香がなんともいえません。ちなみにこの句とはまったく関係ないのですが、「俳枕」(芭蕉のころからある言葉だそうですが)って間抜けな言葉ですね。重箱読みが納得いかない。江戸俳諧は初期のころ漢詩の影響を受けていたのだから、音読みで「はいちん」と読みたくなります。
ぴえたくん:確かに、袈裟懸けは魅力的です。が、すかんぽって柑橘系? 煮て食べると酸味があるらしいけれど、すかんぽがいい匂いするって聞いたことがありません。来春、蕨採りに行けたらすかんぽの匂いも確かめなければ。。
「はいまくら」がどうもすかっとしないと感じたのは意味だけじゃなくて読みもだったのですね。指摘されるまで気付きませんでした。「はいちん」一文字足りない。歌枕があるから、無理からに俳枕って名付けたのかも。
帽子:ぼくも俳句をはじめるまで「俳枕」なんてものがあることを知りませんでした。

引き際に人柄にじむ樫落葉   萩山

健介 

健介:しかしながら、単に理屈を述べた印象にとどまっている言い回しなのは戴けない。いわば“常識的な事柄を敢えて言って勝負する句”の場合、それを活かすためには“潔い断定の切れ味”こそが説得力となりうるのではないかと思うし、勢いが必要とも思う。例えば《引き際が人柄なりし樫落葉》とした方が(内容は同じでも)読み手にとってインパクトがあると思うが…。

春逝かす闇のひとつにカラオケ屋   白井健介

秋 

秋:カラオケで早々と夏の歌を歌うというのでしょう、俳諧味があって面白い。

猫柳ガングロの腿くすぐりぬ   ぴえたくん

斗士 逆選:朝比古 

斗士:準特選。猫柳とガングロというほぼ対極にあるような両者が、「腿くすぐりぬ」で、うまく配合された。
健介:「くすぐ」るのに使うんだったらやっぱり“猫じやらし”の方でしょ?
つっこみ!
ぴえたくん:わたしの句も秀人さんの「全体的な感想」欄に掲出されていましたが、秀人さん、お手数ですが、なんで「腿」が安易なのかナルシシズムなのか説明して下さい。どうぞ、よろしく!わからないわたしが安易そのものでしょうか?
朝比古さんがどうして逆選に選ばれたのかも話してもらえるとうれしいのですが。
もちろん、こんなに素晴らしい作品なのに、と思って書いているのではありません(^.^) どんな風に読まれたのか知りたいだけです。
あと、白井さんが、くすぐるのは「猫じゃらし」と評に書かれていましたが、猫柳でくすぐっていると書いたつもりはなかったので、残念でした。くすぐるもので「猫」だったら「猫じゃらし」と決めてしまうのも哀しい気がします。
工場長さまが準特選、と選んで下さっていて、めっちゃうれしかったわん。工場長さまありがとう\^o^/〔これが書きたかっただけじゃないか?〕〔と思った方、誤解ですよん(^.^)  〕
凌:「ガングロの腿」は風俗の一端を覗かせていて面白いと思ったけど、猫柳と腿までの距離を測られるのも、「猫じゃらし」がいいと言われるのも、結局は「猫柳」が切れてないからではないか。風俗の先端と風流の組合せにも無理があって、私も「猫柳=くすぐりぬ」で入れなかった。
以下は作者の意から離れた独断的意見として、いっそ「ガングロの腿」を雑踏のど真ん中に浮かび上がらせるという当り前の手法の方が批評する力を生むのではないかと・・・これは川柳的読みです。
ぴえたくん:「猫柳」が切れていないから、まさに!m(__)m 凌さんのご意見には突っ伏してしまいました。感触だけで組み合わせるには今も抵抗がありませんが、風俗の先端と風流の組み合わせ、と考えると自分でも採らなかったと思います。(誰も自分のは採らないけれど)
実際、ガングロの腿は雑踏に浮かび上がっていて、強烈な存在感を感じていたのですから、素直に詠む方がいいのかも知れませんね。
ご意見ありがとうございました(^.^)
あずさ:ガングロって足も黒いのかな。ま、それはさておき、ガングロ養護派のわたしは、かつての自分の職場を思い出しました。(アメリカでも流行れ>ガングロ!)この職場は西武立川と福生のちょうど中間点にあったのですが、(東京郊外、まわりにゴルフ場があり、畑もあった)、引っ越したばかりで、元々は麻布にあったのです。で、そこにいる秘書の女性はハイヒール履いて、黒いサングラスかけて、ウォークマンを耳にあてて通勤していた。畦道をこの格好で歩くのは、とてもアンバランスで、某女性は、麻布にあったからこの会社に就職したのよ! 丈の高い草をみると頭痛くなっちゃうのよねっ!と文句を言っていました。ときにガングロ。これをハワイに持っていっても浮くだろうし、、、、ガングロって、渋谷と新宿と池袋以外に居場所はないのかも。。。
ぴえたくん:東京に遊びに行って、初めてガングロのおんなのこたちが集団でいるのを見ました。うれしかったわん(#^_^#) 大阪ではほとんど見かけませんが、全くいないと言うこともありません。どこにでもいたい所にいると思います。それぐらいの根性が無くては、ガングロできません。
朝比古:私の場合、俳句は最終的には「良い悪い」ではなく、自分の「好き嫌い」で選んでいます。その前提でお話しすれば、正直言って「ガングロ」、この一語が生理的にだめだったのです。「猫柳」はくすぐる道具としてではなく、背景として読みました。春の水辺のカップルのイメージでしょうか。現代を詠み込もうという意気は小生も見習わねばと思っております。
ぴえたくん:自分の「好き嫌い」で選ぶ。わたしも同じです。だから、どうして一番きらわれちゃったのかな?と気になってお伺いしました。
「ガングロ」思い切り流行語&民俗?ですから詠み込むには少し抵抗がありましたが、猫柳とは遠縁の方に登場してもらいたかったので(^.^) 
猫柳は背景と言うか、感触として登場させたのですが、自分のひとりよがりの域に留まっていたようで、またがんばります。
帽子:最近、作者本人からの発言が多くて、「つっこみ句会」もおもしろくなってきましたね。作者がお上品に黙っているばかりではつまらないですからね。
(ぴえたくん: 猫柳でくすぐっていると書いたつもりはなかったので、残念でした。)
これは(白井氏の意見を推測することはできませんが)、「猫柳」というとやはり「木」の状態を想起し、あのほわほわが枝に生えて、その枝は幹についている状態を思ってしまうので、そうすると「腿」を「くすぐ」る高さにはないのではないか、それでどうせお題が「猫」なのだから「猫じゃらし」のほうが(季節が秋になってしまうけど)「腿」を「くすぐ」る高さにあって自然なのではないか、といったことが考えられます。といってもぼくは植物のこと知らないので、低い猫柳というのがザラにあるのかもしれません。どなたかご教示ください。もちろん、「柳」の枝を折った人(本人含む)がそれで「腿」を「くすぐ」っているとか、あるいは「腿」の持ち主が木に登っているとか、いろいろ考えられますが。話題に出たついでに、採らなかった理由ですが、「頬杖…」の句と同じ理由で、「ガングロ」の換喩がやや落ち着かない感じがしたからです。また「ガングロ」の使いかたが、おっさん臭いというがサラリーマン川柳みたい。サラ川臭する句って、けっこう向上句会に多いです。
ぴえたくん:(帽子:作者がお上品に黙っているばかりではつまらないですからね。)
はい。ほんまに。でも、わたしじゃ「ふむふむご尤も」で納得しちゃうので、反論もいたしませんが、お許し下さいませ。
(帽子:お題が「猫」なのだから「猫じゃらし」のほうが(季節が秋になってしまうけど)「腿」を「くすぐ」る高さにあって自然なのではないか、といったことが考えられます。)
わたしには不思議でしょうがないのですが、どうして実景を想定しなければならないのでしょうか?ほわほわの部分だけを想定してもらうには「猫柳のほわほわ」と書かなければならないのでしょうか? 不思議です。
作者がどんなに「〜〜〜として詠んだ!」と言っても読者に解釈してもらえなかったら、作者の力不足と重々承知しておりますが、わたしは他の人の作品を鑑賞する際に、まず実景を考えない方なので。。。
猫柳は腿をくすぐったりしません。猫柳のほわほわが腿に触れたら、それはくすぐったいと人間が感じるだけでしょう。猫じゃらしだって同じ事です。
(帽子:「ガングロ」の換喩がやや落ち着かない感じがしたからです。また「ガングロ」の使いかたが、おっさん臭いというがサラリーマン川柳みたい。)
ちょっとHな雰囲気が漂うといいかな?と思っていたのですが、おっさん臭かったとは(-_-;)
採らなかった理由を伺えて反省のよい材料になりました。
帽子:手短に。実景で見たがる読み手とそうでない読み手がいるわけですが(どちらかというとぼくも後者ですが)、それとはべつに「実景ぽく読ませる傾向が強い句」とそうでない句もあって、「猫柳」の句は前者なのだと思います。句を作る以上、「実景で読まれてしまう危険性」を予想して、そう読まれると不利ならばそれの可能性を減らす措辞をする、というのが基本ではないでしょうか。
ぴえたくん:ほんまにそうです。基本を教えて下さってありがとう。ちのさんは短歌お嫌いでしたね。わたしは水原紫苑さんが好きです。(関係無いって)

マフラーに鉛包みて逃避行   (h)かずひろ

隆 逆選:しんく 

しんく:鉛を包むほど、気分が重いってことを言いたいんだろうけど、こっちまで気分がおもくなるので・・・。

その他の句

レマン湖の天を奏でる雲雀かな   後藤一之

あずさ:レマン湖、ロマンチック。天を奏でる、ロマンチック。雲雀、ロマンチック。

春ひかる猫の目ひかる金平糖   古時計

健介:「春ひかる猫の目」という言い回しから読み手が“恋猫”というのを容易に想起するような辻褄の合い方をするのは印象面ではやはりマイナスと言えるでしょう。語順を整理して“「ひかる」もの”を明確にすべきだとも思います。《金平糖ひかる猫の目ひかる春》などとしたならちょっと面白いかな、と感じて採ったかも知れません。

甲斐なきや硬き姿の恋の猫   いしず

あずさ:硬き姿の猫。。。死後硬直じゃないの?と一瞬思ってしまった。

箱舟や恋する猫の何日目   鉄火

健介:「何日目」というふうに“お茶を濁した感じ”を与えるのは損だと思う。

パンと打つ、風に向かいて鼻を折   来夏

あずさ:この句も猫を思って詠んだ句なのか。情景が浮かびそうで浮かばなかった。

薄氷や例えばマッチ売る少女   小島けいじ

あずさ:薄幸の少女に<薄氷や>は、ちょいと芸がない。<例えば>ったってね。

猫色になって春の日ひるがえる   姫余

あずさ:猫色とは? 猫色を思い浮かべることができないと成立しない句なのではないでしょうか?

きやらめるのやうにキャスター春の果て   田中亜美

明虫:きやらめるとキャスターは暗示に富んで面白いのに、春の果てが甘くて弱くてとれなかった。やうに、と言わず「きやらめるのキャスター」でもよいのではないでしょうか?

日だまりに残る気配をいとおしむ   (h)かずひろ

あずさ:これも猫を読んだ句なのだろうか。もっともいとおしい何か、あるいは誰かは容易にこの日だまりに当てはまり、なおかつこれを愛おしむのは、たいへんありがちな光景かと。。。

ありありと遠き日のこと猫の恋   萩山

逆選:あずさ 

あずさ:当たり前過ぎる。

チューリップ咲いてうれしや猫は嫌い   夜来香

逆選:満月 

満月:なんか、作者がわかってしまった。楽しくておかしいので、つつしんで逆選を進呈。
健介:そうですか…。としか返答できない句のように思います。

上巻へ